二本松の鬼婆は1000年以上も語り継がれる福島の伝説
目次
福島県の伝説として語り継がれる『安達ヶ原の鬼婆』。
知らずに自分の娘をその手で殺めてしまうという悲劇が原因で鬼婆となり、旅人を殺して血肉を貪り食うという猟奇的な人物と化しました。
実在したかどうかは定かではありませんが、福島県民なら誰もが幼少期にこの話を聞かされその恐ろしさに恐怖心を覚えたものです。
関連施設である『安達ヶ原ふるさと村』は現在は鬼婆の歴史を伝えるだけではなく、子供が遊べる施設として公園を完備したり、お土産コーナーを設けたりと人気の観光地となっています。
今回の記事では福島の伝説として伝わり続ける『安達ヶ原の鬼婆』についてご紹介していきます。
ぜひ福島に語り継がれる伝説に触れてみてください。
安達ヶ原の鬼婆伝説のあらすじ
その昔、京の都に『岩手』というお姫様のお世話をしていた女性がいました。
岩手が世話をしているお姫様は不治の病を抱えています。
そして5歳になっても口を聞くことができない状態でした。
医者に見てもらっても良くなる気配がせず、とある占い師に相談してみました。
するとその占い師は「おなかの中にいる子どもの生ぎもを飲めば」 と返答。
要するに「胎児の生き胆が病気に効く」という意味です。
どうしてもお姫様を治したい岩手はこの言葉を信じ、自分の娘を置いて京都を出発し奥州まで下ります。
阿武隈川のほとりまで来てちょうど良い場所を見つけた岩手はそこに棲みつき、旅人を泊まらせては殺し、生ぎもを取っていました。
ここで悲劇が起こります。
ある晩秋の寒い日。
生駒之助、恋衣と言う若い夫婦二人が宿に困っており岩手の宿を訪ねて来ました。
恋衣のお腹には赤ちゃん。
妊娠中のお客であった恋衣は、岩手の目には「恰好の餌食」に映ったはずです。
同時に故郷に帰りたくても帰れない身であったことから、仲睦まじい上にもうすぐ子宝に恵まれる幸せそうな夫婦に殺意も覚えていました。
喜んで泊めたその日の夜、急な腹痛を訴えた恋衣。
陣痛です。
生駒之助は急いで薬を求めに出かけていきます。
そのタイミングを見計らいチャンスとばかりに出刃包丁を手にする岩手。
恋衣の腹を裂きます。
「私は母を尋ねて歩いております。心当たりの旅人がありましたらお話し下さい。」と苦しい中訴える恋衣はその後すぐに息絶えます。
岩手は恋衣の持ち物を調べたところお守りを発見。
中を開けて見ると岩手は衝撃を受けます。
なんと恋衣は自分の娘だったのです。
”母を訪ねて”というのはまさに岩手自身を探していたということ。
知らなかったとはいえ実の娘を殺し、お腹の中の孫をも殺してしまった事実に苦しみ発狂。
ついには鬼婆となってしまいました。
生きる希望を失ったかつての岩手、鬼婆はその後も旅人を殺し金品を奪う行為をエスカレートさせ、周囲に噂が広がるほどでした。
そして猟奇的な犯行を繰り返していましたが、1人の僧侶に討伐されその生涯を閉じます。
現実かどうかは定かではありませんが、多くの文献から推定すると岩手は最低でも137年間鬼だったようです。
参考記事:http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/page/page001329.html
参考記事:http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-322.html
今なお残る鬼婆の生きた証。観世寺(かんぜじ)・黒塚
二本松にあるこのお寺は鬼婆の墓とされる黒塚があります。
他にも鬼婆が住んでいたとされる岩屋の笠石(かさいし)、旅人を殺した時に出刃包丁を洗ったという出刃洗いの池(または血の池)なども現存。
また、鬼婆ゆかりの品々を保管する宝物資料館もあります。
鬼婆伝説をよりリアルに感じることができるこの場所は貴重な観光地となっています。
しかし、この妙なリアルさは子供にとっては恐ろしい話です。
妖怪や架空の怪物とは違い、普通の人間が豹変し姿を変え鬼婆となる。
お腹を切り赤ちゃんの息までも止める。
そして鬼婆の墓と今も残る道具。
多くの福島県民は子供の時に鬼婆の話を聞かされ、気軽に訪れることができる場所にあるからこそ連れてこられます。
そしてリアルすぎる衝撃的な内容に恐怖を覚えたはずです。
参考記事:http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/sp/page/page000481.html
参考記事:https://bqspot.com/tohoku/fukushima/679
参考記事:https://japanmystery.com/fukusima/kuroduka.html
近年は鬼婆伝説の矛盾点も指摘されている!?
wikipediaによると討伐に成功した僧侶の祐慶(ゆうけい)が鬼婆に出会った時期は平安遷都すら行われていない時代のようです。
したがって、岩手が奉公していた時代には奉公先であるはずの京の都自体が存在していないという矛盾が生まれます。
また、上記でご紹介した観世寺には黒塚宝物資料館があり、実際に使用したと言われる出刃包丁や 鬼婆を埋める時に使用した鍬、さら食べた人間の骨を入れた壺などが展示されています。
しかしなんとその壺は縄文土器や弥生土器だということがわかっています。
この事から発見された人骨や巨大な石群は縄文時代のものだとの推測されています。
土佐国に二本松の鬼婆伝説が伝わった際には身長7尺5寸(約230センチメートル)、髪の長さ4尺8寸(約150センチメートル)の鬼女が妊婦の胎児を喰らったという話の内容になっています。
仮に実在したとしても230センチメートルの身長はあり得ないので話の尾ひれが付け加わって語り継がれているようです。
他にも祐慶(ゆうけい)は埼玉県の僧で、この地域にも鬼婆伝説があることから作り話の可能性も浮上。
かつては二本松と埼玉、お互いが”鬼婆発祥の地”としてもめたこともあるようです。
真実はさらにわからなくなります。
参考記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%A1%9A
参考記事:http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-322.html
参考記事:https://mag.japaaan.com/archives/90448/3
また鬼婆の正体を突き止めようとする個人も多く、鬼婆は『瀬織津姫』という見方をしているブログもあり非常に興味深いです。
参考記事:https://blog.goo.ne.jp/nobolook47/e/5e8a9669a12429a1464b6d82a319d941
安達ヶ原ふるさと村
福島県二本松市の観光名所である『安達ヶ原ふるさと村』。
かつては鬼婆の紹介を中心とした施設でしたが、残虐な内容から暗いイメージを払拭することは難しく次第に客足も遠のいていました。
しかし現在は完全リニューアルをし子供も楽しめる施設へと変貌を遂げています。
駐車場に隣接している「ふるさと館」ではレストランとおみやげコーナーがあります。
専用の通路を通ると安達ヶ原ふるさと村の広大な敷地内へ。
一番目を引く五重塔は階段を登り目の前まで近づくことが可能です。
農村生活館では明治時代の初期の建築を移築した家屋に入ることができ、土間、囲炉裏など昔の生活を感じることができます。
武家屋敷は映画の中にでも入ったかのような中流武士邸を再現しており、門構えや塀など細かい造りにもこだわって作られています。
げんきキッズパークは無料の遊び場として連日大賑わい。
赤ちゃんから小学生までが室内でも存分に体を動かすことができます。
また野外にも公園スペースが設けられており、遊具で遊んだり隣の池の鯉を観察したりと自然の中でも遊ぶことができます。
他にも二本松・安達地方を中心とする郷土資料館や茶室など見どころたくさん。
子供から大人まで季節に関係なくゆっくり楽しむことができる施設です。
安達ヶ原ふるさと村HP:http://www.michinoeki-adachi.jp/furusato/
参考記事:https://machi-tabi.jp/archives/24075
鬼婆のキャラクター「バッピーちゃん」
鬼婆の恐ろしい印象を払拭すべく、可愛らしいキャラクターとして昨今のゆるキャラブーム以前より誕生しています。
旧デザインでは若干の怖さが残っていたようで、デフォルメした現在の姿に変更されたという珍しい経緯を持ちます。
参考記事:https://ameblo.jp/1115t-77m/entry-11424659650.html
謎が多いからこそ惹きつけられる鬼婆伝説
悲劇が生み出した鬼婆。
発端となった京都のお姫さまはその後どうなったのか。
なぜ奥州という遠い地へ来る必要があったのか。
旅人を殺して生き肝を取っても長期間は放置できないのにどうしたのか。
このお話は色々な謎や指摘したくなる点が数多く存在しています。
平安時代には平兼盛によって次のような和歌も詠まれています。
「陸奥の 安達の原の 黒塚に 鬼こもれりと いふはまことか」
この事から1000年以上も前にはすでに鬼婆にまつわる話は語り継がれていたことがわかります。
真実か噓かはわかりませんが、時代を越えて受け継がれている『歴史』であることは間違いありません。
謎が謎を呼ぶからこそいつまでも惹きつける話になっているのでしょう。
子供には恐怖を、大人にはロマンを。
鬼婆伝説はこの先1000年後はどういう話に変貌を遂げているのかも非常に興味深いものです。