福島がもっと発展するために。
地元の を応援するメディア。

2020.01.17

福島県二本松市で高村光太郎が妻とともに育んだ愛と作品とは

よかっぺボタンを押して
このチャレンジを応援!

2よかっぺ

はじめに

日本文学史を習ったことのある方であれば、高村光太郎という芸術家の名前を一度は聞いたことがあるかもしれません。彫刻家の息子として生まれた光太郎は彫刻や絵画といった作品を世に残しますが、彼の作品群の中でも有名なのが「詩」です。

特に妻の高村智恵子と過ごした生涯の中で記した「智恵子抄」は有名です。そのため光太郎は近・現代を代表する詩人として、また一人の妻を長年愛し抜いたことから昭和の恋愛史を代表する一人としても知られています。

そんな彼の妻である智恵子が17歳まで過ごした生家が福島県二本松市にあり、智恵子自身の作品は同市の「智恵子記念館」に多数展示されていることはご存知でしょうか。

この記事では智恵子とともに激動の時代を駆け抜けた高村光太郎と、妻である智恵子の生涯について詳しく解説します。

高村智恵子の過酷な生涯とは

高村智恵子の生家が二本松市にあることは前述しましたが、この章ではまず光太郎の妻である智恵子とはどんな女性だったのかについて解説していきます。

現在の福島県二本松市の油井で酒造業を営んでいた斎藤今朝吉とせんの長女として生まれた智恵子は、父親が長沼家の養子になった時点から資産家のお嬢様として生きることになります。1903年に福島高等女学校を総代として卒業した智恵子は、その後日本女子大学校に進学しました。

元々は家政学部だった彼女は在学中に油絵に興味を持つようになり、洋画の授業ばかり選択して受講していたと言います。大学卒業後は両親の反対を押し切る形で女性洋画家としての道を選び、1911年に創刊された「青踏」の表紙絵を飾るなどして若き女性芸術家として注目を集めるようになります。

智恵子自身は光太郎と出会う前から、彼の評論「緑色の太陽」で彼の価値観に共感を抱いていました。それが柳八重の紹介で光太郎自身と初対面を果たし、彼女は上高地に行くという光太郎を追いかけることで彼と結婚することへの意志を固めたと言います。1914年12月から光太郎のアトリエで同棲生活を始めた智恵子は、窮乏の生活ながらも創作活動を意欲的に行なっていきます。

しかし1918年に父親の今朝吉が死に、1929年に長沼家が破産して一家離散したことなどが相次ぎ、智恵子は精神的な不調へと追い込まれていきます。彼女自身が結婚以前から病弱だったこともあり、夫である光太郎の留守中に統合失調症の最初の症状が現れたとされています。これが1931年のことでした。

そうして時間とともに病状が悪化したことから、翌年7月15日には睡眠薬の大量服薬による自殺未遂を起こします。そんな智恵子は1933年に光太郎と入籍してから、療養のため東北地方の温泉巡りを始めたそうです。ただその期間中に病状がさらに悪化したことから、智恵子は母と妹一家が暮らす千葉県の九十九里海岸へと居を移します。

それでもなお病状が改善しなかったため1935年2月に当時南品川にあったゼームス坂病院に入院しました。精神的に病んだ状態の時には簡単にできる手作業が効果的だと医者から聞かされた光太郎は、妻の智恵子に千代紙を渡したと言います。

それをきっかけに病床にいながら紙絵創作を始めた智恵子は、約1,000点以上もの紙絵作品を意欲的に作り続けました。しかしそんな時間も長くは続かず、1938年の夏あたりから体調面で不調を来した智恵子は、10月5日に粟粒性肺結核のためにこの世を去ります。52歳でした。

光太郎は智恵子が亡くなった3年後に、彼女の生前から書き溜めていた詩集「智恵子抄」を出版します。また智恵子の忌日である10月5日は夫の光太郎が智恵子の臨終を書いた「レモン哀歌」にちなんで、「レモン忌」と呼ばれています。

近・現代の詩人として有名な光太郎の影に隠れてしまいがちですが、妻の智恵子もまた当時では珍しかった美しい色彩の油絵を数点描き上げており、また病床に伏してからも繊細な色使いの紙絵を意欲的に創作し続けた立派な芸術家でした。

高村光太郎の生涯とは

病弱だった智恵子を妻として娶った光太郎は、彼女と出会うまでの間に長期的な海外留学を行なっていました。1906年3月からニューヨークで1年2ヶ月、ロンドンで1年1ヶ月、さらにパリに1年間滞在してから1909年6月に帰国したと言います。その間に彼はメトロポリタン美術館で偶然出会ったガットソン・ボーグラムの作品に惹きつけられ、薄給ではあったもののガットソンの助手として働いた一時期もありました。

また昼間は労働でお金を稼ぎ、夜にはアート・スチューデンツ・リーグの夜学に通うという多忙ぶりを極めた時期もあったそうです。

充実した海外留学を終えて帰国した光太郎は、日本の停滞する美術界や父親への反感から、東京美術学校の教職員になる道を蹴ったと言われています。「パンの会」と呼ばれた青年芸術家の懇談会に身を寄せた光太郎は、雑誌「スバル」に美術批評を寄せることもありました。

そうして1910年に芸術の自由を宣言する評論「緑色の太陽」を発表するに至りました。この評論があればこそ、光太郎は妻の智恵子と縁を結ぶことができたと言っても過言ではないでしょう。そうして短くも過酷な結婚生活を共にした智恵子と死別してからというもの、光太郎は第二次世界大戦の渦中へと巻き込まれていきます。

大戦中の真珠湾攻撃を賞賛した光太郎は「記憶せよ、十二月八日」などの作品を発表しており、戦争参加に非常に意欲的だったことがうかがえます。また戦時中の1942年には、彼の詩集「道程」が第1回帝国芸術院賞を受賞したという記録もあります。

しかし終戦間近の1945年4月の空襲により、アトリエを爆撃された光太郎はその時点で多数の彫刻やデッサンなどを焼失してしまいます。それから同年5月には宮沢賢治の生家へと疎開するものの、同年8月にはこの疎開先もまた爆撃されてしまいます。

命からがら逃げ延びた光太郎は、終戦後の10月に岩手県花巻市に粗末な小屋を建てて自炊生活を始めます。ここで7年間を過ごした光太郎ですが、この独居生活の中で戦争に協力的な詩を多数書いたことを自省していたと言われています。

自省とともに粛々と過ごした7年間を終えた光太郎は、1952年に十和田湖畔に建立する記念碑作成を委嘱されたことから、東京都中野区に新たなアトリエを構えます。この時の記念碑が後に「乙女の像」と呼ばれる裸婦像になります。

そうして芸術作品を作り続けながら激動の時代を駆け抜けた光太郎は、1956年4月2日に自宅アトリエで肺結核のために亡くなります。73歳でした。

この光太郎の忌日は「連翹忌」と呼ばれており、これは生前彼が好んだ花がレンギョウであり、彼の告別式の時に棺の上に一振りのレンギョウの枝が置かれていたことに由来すると言われています。

高村光太郎の妻が愛した風景とは

ここまで高村光太郎賞と妻の智恵子の生涯について紹介しましたが、智恵子の生前に書き溜められていったとされる「智恵子抄」では、彼女が二本松市の風景を偲んだであろう一節が残されています。ここではそんな智恵子の思いがうかがえる「あどけない話」を、そのまま抜粋しておきます。

「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、切っても切れないむかしなじみのきれいな空だ。どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながらいふ。阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。」

幼い頃から都会の中で育った光太郎には分からない感覚でしょうが、智恵子にとっての空というのは、人工物に切り取られることのない広々とした空のことだったのかもしれません。二本松市では智恵子が愛したとされる生家が当時の姿のまま再建されており、「智恵子の生家」では実際に足を踏み入れて彼女が過ごした風景を垣間見ることができます。

囲炉裏やかまどといった古風な物達が多数置かれたその空間は、昭和を知らない若い世代の方にとっては真新しく、また昭和を生きた年配の方にとっては懐かしく感じられることでしょう。

二本松城にも彼らの歴史が刻まれている

福島県の二本松市が高村智恵子の故郷であることを再三前述していますが、「智恵子抄」の一節は二本松市の霞ヶ城にも記念碑として残されています。それが「智恵子抄」の一節である「樹下の二人」であり、ここでその内容についても併せて抜粋しておきます。

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。ここはあなたの生まれたふるさと。あの白壁の点々があなたの家の酒庫。」

光太郎は智恵子という女性を心から愛しており、その愛の結晶が「智恵子抄」という詩集として後世に遺されています。

高松光太郎の妻である智恵子がどのような環境で生まれ育ちその感性を磨いたのか、その片鱗は二本松市にある「智恵子の生家」の風景や、「智恵子記念館」の作品群から感じ取ることができます。高村光太郎という生粋の芸術家に愛された智恵子の生涯を偲ぶ際には、実際に福島県の二本松市に足を運んでみて実物の存在感を直接確かめてみるのがおすすめです。

まとめ

高村光太郎の詩集にも二本松市の風景を偲ぶ智恵子の様子が度々描かれており、その素朴な原風景は今もまだ残されています。また福島県二本松市にふるさと納税をすると、お礼品として福島県の特産品を貰うことができます。

その中には智恵子のことに思いを馳せられる和紙雑貨セットもあり、お礼品として選べるものの種類はなかなかに豊富です。興味があれば下記サイトも併せて覗いてみるといいでしょう。

▼参考サイト▼

ふるさと納税サイト「さとふる」

https://www.satofull.jp/products/list.php?s4=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&s3=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E5%B8%82

ふるさと納税で福島を応援しませんか?

そもそもふるさと納税ってよく聞くけど何?と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「ふるさと納税」とは、ご自身の生まれ育ったふるさとや、愛着のある地を応援することの出来る寄附金制度です。

生まれ育ったふるさとやゆかりのある地、応援したいと思う区市町村に寄附をすることで、寄附主のあなたが今お住まいになっている区市町村の住民税や所得税が軽減されます。

内容によっては、返礼品を受け取ることもできます。

「ふるさとを応援したい。」
「ふるさとの力になりたい。」
「お世話になったあの地に何か恩返しがしたい。」

そんなお気持ちを、ふるさと納税を通して伝えてみませんか。
福島県二本松市によるふるさと納税の寄附金の使い道は、以下の通りです。

  • 子どもや若者の未来を創るまち
  • 郷土愛にあふれる活力と賑わいのあるまち
  • いつまでも元気で生きがいのもてるまち
  • 助け合い、支え合い、安全に安心して暮らせるまち
  • おまかせ

福島県二本松市には、二本松市産の黒毛和牛セットや大七酒造・奥の松などの地酒、スキーヤーの中では有名なあだたら高原スキー場のリフト券など、90種類近くの返礼品が用意されています。

福島県二本松市を「応援する気持ち」「愛する気持ち」をかたちにしてみませんか。

二本松市だけではなく福島県内、各市町村でふるさと納税を実施しています。
生まれ育ったふるさとやゆかりのある地の返礼品を、さっそくチェックしてみましょう!

よかっぺボタンを押して
このチャレンジを応援!

2よかっぺ
SHARE
top