キリシタンの悲劇を後世に伝える福島のキリシタン塚とは
目次
はじめに
福島県にある会津若松は、歴史を題材とした物語の舞台になることが多い土地としても知られています。そんな会津若松には歴史的にも見どころのある史跡がいくつも残されており、中でも当時のキリシタン達の悲劇を後世に伝えるものとして「キリシタン塚」があります。
今でこそ信仰の自由が許されているために、誰がどのような宗教を信仰していようと、宗教のことを理由にして危害を加えられることはまずありません。しかしかつて幕府がキリスト教を禁止していた時代には、多くのキリシタンが自らの信仰を理由に殺されてしまいました。
そんなキリシタン弾圧の悲劇で殺されたキリシタン達の慰霊のため建てられたのが、福島県会津若松市にあるキリシタン塚です。この記事では福島のキリシタン塚にまつわる歴史について、その象徴的なエピソードとともに紹介します。
会津にキリスト教を布教した蒲生氏郷とはどんな人物か
キリスト教を会津の地に広めたのは「蒲生氏郷」という人物で、氏郷は別名「キリシタン大名」とも呼ばれます。キリスト教徒として知られる氏郷は戦国大名の中でも特に有名な織田信長に、臣下として最も武将としての器を認められた武将であるとも言い伝えられています。
この章ではまず、会津にキリスト教を布教した蒲生氏郷とはどんな人物であったのかについて解説していきます。
人質ではありえない厚遇を受けていた
氏郷は近江の日野城主である蒲生賢秀の三男として、1556年に誕生しました。1568年に観音寺城の戦いで織田信長に六角毛が敗走させられたという報せを受けた賢秀は、なおも籠城を続けて抵抗を試みます。しかし織田家の家臣であった神戸具盛からの説得を受け、ついには織田勢に降伏します。
そして当時鶴千代と呼ばれていた氏郷は人質として織田家に差し出され、蒲生家は織田家重臣である柴田家の余力として扱われることになりました。
人質と言えば冷遇されることもよくありますが、織田信長が一目見て蒲生親子共々気に入ったことでそのような扱いを親子で受けることはありませんでした。それどころか当時12歳だった鶴千代をいたく気に入った信長は、自身の次女である冬姫(実名が不明とする説もある)を鶴千代に嫁がせることを決定するのです。
氏郷は人質という身分のまま13歳の時に岐阜城で元服を済ませ、その後すぐに冬姫を娶ります。また氏郷の元服の烏帽子親を織田信長が直々に務めたことからも、氏郷が信長にとっていかにお気に入りの存在であったかがうかがえます。
そして織田信長が初見で見込んだ通り、氏郷は成長するにつれ文武両道の名将としてその器を完成させていきます。また家臣や領民思いの良き君主であったとも伝えられており、非常に情の篤い人物であったとされています。また正室として娶った冬姫以外には別の女性を側に寄せることもせず、彼女との間に男児と女児の二児をもうけたそうです。
キリスト教の洗礼を受けてキリスト教教徒になる
柴田勝家の余力として戦に出向き次々と武功を挙げた氏郷は、本能寺の変が起こった時にも明智光秀に対抗姿勢を示しました。清洲会議で蒲生氏郷として家督を継ぐことが決まって以降は、信長の腹心であった豊臣秀吉に助力するようになります。
そして秀吉が九州攻めを敢行した際には前田利家らとともに岩石城を陥落させ、それらの功績により1588年には松坂城を築城するに至ります。そして後には豊臣姓も下賜されており、このことからも豊臣秀吉もまた氏郷に一目置いていたことが伝わってきます。
ちなみに氏郷の友人の一人に高山右近という人物がいるのですが、この右近こそ氏郷をキリスト教の道に導いた人物であるとされています。当初はキリスト教そのものを敬遠していた氏郷でしたが、実際にキリスト教の説教を聞いて大いに感動して、結果的にキリスト教の洗礼を受けることになりました。その際に下賜された洗礼名が「レオン(もしくはレオ)」であったと言われています。
そしてキリスト教徒に転身した氏郷は、会津藩の領民達にもキリスト教への改宗を熱心に勧めていたそうです。実際に会津若松の住民のうちおよそ3割がキリスト教であったと言われており、このことからも蒲生氏郷がキリシタン大名と呼ばれるのも納得です。
才気に恵まれながらも若くして病死する
織田信長に重用され豊臣秀吉にも一目置かれた氏郷は、洗礼を受けて以降も武働きをして功績を上げていきます。しかし1592年に行われた文禄の役の陣中にて体調を崩した氏郷は、翌年11月には会津へと一時帰国します。ただその時には病状がかなり深刻な状態になっており、秀吉は前田利家や徳川家康にも名の通った医師を派遣するように命じたと言います。
しかしその甲斐もなく1595年2月7日、蒲生氏郷は伏見にある蒲生屋敷にて病死しました。享年40歳でした。
氏郷が死ぬ直前まで側に寄り添っていたのが、前述した高山右近でした。氏郷の枕元に聖像を掲げて臨終正念にパライゾ(キリシタン用語で「天国」を表す)の快楽に至るべきことを諭したそうです。右近の言葉に同意を示した氏郷は死の間際に懺悔の誠を現し、瞳を聖像の方向に向けながら静かに息を引き取ったという逸話もあります。
この臨終を見届けた右近は氏郷のことを「真のキリシタンとして死んだ」と評価したと言います。
実際に起こったキリシタン塚の悲劇とは
会津若松は前章で紹介した蒲生氏郷が領主だったこともあり、キリスト教が徐々に根付いた土地でした。しかし時代が移り変わり江戸時代にもなると、幕府による反キリスト教政策が執り行われるようになります。そうして起こるべくして起こったのが、キリシタン塚にまつわる悲劇でした。
この章では福島県にあるキリシタン塚に秘められた、キリシタン達の悲劇について簡単に紹介しておきます。
江戸時代にもなると幕府そのものが反キリスト教を掲げており、政策としてキリスト教の弾圧を行っていました。それが時間が進むにつれ政策内容が過激になり、処罰の仕方もエスカレートしていきます。その処罰からどうにか逃れようと、会津の地には多くの隠れキリシタンが潜むこととなりました。
そして1635年になると幕府によるキリスト教の厳戒令が、これまで以上に強化されてしまいます。会津藩主が加藤明成であった時代には、当時会津でキリスト教徒の長として慕われていた横澤丹波とその一族、さらには横澤邸に潜伏していた外国人教徒など、およそ60人ものキリシタンが捕らえられたと言います。そして薬師川の河原にあったとされる刑場でその全員の処刑が行われ、処刑者の誰もが弔われることなく死体を野に晒すことになりました。
それから時代が進み1962年になると、刑場のあった河原でたくさんの人骨が見つかったと言います。その骨がキリシタン弾劾の犠牲者のものであると推察されたため、後年になり慰霊碑としてキリシタン塚が建てられることになりました。
中世ヨーロッパでも魔女狩りとして多勢にそぐわぬ異分子を虐殺する行為が行われていたことは有名ですが、それと全く同じ行為が日本でも実際に行われていました。当時は幕府が認めた以外の信仰を持つことは許されておらず、異国発祥のキリスト教を信仰しただけで異端視され迫害されたと言います。
過去に起こった悲劇を二度と繰り返さぬようにという祈りと戒めの意味も込められたキリシタン塚は、会津若松駅からバスに15分程度揺られると現地を訪れることができます。悲劇から400年近くが経とうとしている今でも、理不尽に殺されてしまったキリシタン達を偲ぶように献花しに訪れる方が後を絶ちません。
福島のハンサムウーマンも実はキリスト教徒だった
会津藩に在籍した山本権八を父に持つ新島八重は、男勝りなその生き様から夫の襄(ジョー)に「ハンサムウーマン」と呼ばれるほど豪気な女性だったと言います。幼少の頃から家芸の砲術に興味を抱いた八重は、実兄の覚馬(かくま)から洋式砲術の操作を学んだそうです。
また1868年には鳥羽・伏見の戦いで敗走したこともあり、薩摩藩や長州藩などの新政府軍から会津藩は「逆賊」としてのレッテルを貼られることになります。新政府軍の攻勢が増し籠城戦になる頃には、八重は女性の命とも言われた髪を断髪して男装し、スペンサー銃を携行して銃撃戦に参加したと言います。こうした活躍から八重は後に、「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようにもなりました。
そんな八重も、夫であり同志社創立者である新島襄と出会ったことで転機を迎えます。会津藩が敗戦してから3年後に戦場を共に駆け抜けた鉄砲を捨て、知識という武器を新たに手にしていました。それからさらに4年後には兄である覚馬の元に出入りしていたという襄と婚約し、封建的な風潮の強い時代の中で男女が平等に生きていける社会の在り方を目指して奔走したと言われています。
実は八重もまた襄と結婚する際にプロテスタントとして洗礼を受け、クリスチャンの結婚式を挙げたと伝わっています。この八重の結婚式が京都で初めて行われたクリスチャンの結婚式だったと言うのだから、八重がいかに時代の風潮を気にせず自分らしく生きようとしていたかがうかがえます。
また夫の襄が亡くなって以降は従軍看護師として生き、日清・日露戦争に従軍して勲章も授けられています。彼女が従軍看護師として生きる選択をするのに多大な影響を与えたとされるのが、「日本のナイチンゲール」こと瓜生岩子の存在です。岩子は戊辰戦争時に敵味方の区別をつけず負傷者を救護したと言い、その献身的な働きぶりに当時新政府軍の大将であった板垣退助も感動させられたという逸話が残っています。
八重が晩年になり篤志看護師として従事したのは、同じ会津出身である岩子の存在が非常に大きかったと言われています。キリスト教の言葉にも「隣人愛」というキーワードがありますが、両名ともに自らの喜びを得るために他人の喜びを願い無償の愛を奉じていたのかもしれません。
まとめ
江戸時代に実際起こったキリシタン達の悲劇は今でこそ絵空事のようにも感じられますが、国内の情勢が変わり多勢が無勢を排除する動きが強まれば同様の迫害が起こりうる可能性を常にはらんでいます。そんな人間の愚かさを後世に伝えている史跡の一つとして福島のキリシタン塚があります。
歴史探訪の旅の一環としてキリシタン塚を実際に眺めることで、凄惨な歴史を振り返り二度と繰り返さぬようにと思いを新たにすることも時には必要なのかもしれません。