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2020.01.03

福島出身のボクサーたち プロ選手として拳ひとつで勝ち上がった闘士を紹介

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福島は名ボクサーを多く輩出している土地だと知っていましたか。それがなぜなのか、明確な理由を記した資料はありません。それでも日本国内、そして世界で活躍する福島県出身のプロ選手が数多くいるのが事実。鍛え抜かれ、極限まで絞られたボクサーの身体から繰り出される鋭いパンチ、目にもとまらぬフットワーク。ボクサーの試合を生で見ると感動すら覚えるはずです。そんなプロ選手が同郷福島出身ならなおさら応援したいという気持ちが自然と湧き上がるのではないでしょうか。ここでは福島出身のプロボクシング選手を何人かピックアップして紹介します。


福島出身のボクシング選手その1 福島学


福島出身のプロボクサー福島

ボクシング選手は不思議とドラマチックな経歴になるイメージがありますが、その筆頭が福島学選手です。福島出身で福島という名前なのでリングネームかと思われることが多々あるそうですが、れっきとした本名です。

福島学選手は1974年福島県郡山市生まれです。高校時代に漫画『はじめの一歩』に大きな影響を受け、アマチュアボクシングを始めました。アマチュア時代は大きな戦歴を残すことはなく、高校卒業後は福島県内のビルメンテナンスを請け負う一般企業に就職します。しかしボクシングの道を諦めきれず、就職した会社の社長にそのことを相談しました。そこでプロのボクシング選手を目指すことを勧められ、一般企業を退職。その後上京し、知り合いのつてで開設したばかりのボクシングジムに入所しました。このジムこそがJBスポーツクラブ、現JB SPORTSボクシングジムです。ボクシングファンならすぐにピンとくるかもしれません。そう、JBスポーツクラブは漫画『はじめの一歩』の作者である森川ジョージがオーナーであり、『はじめの一歩』主人公のモデルとなったプロボクサー高橋直人が会長を務めるジムなんです。ボクシングを始めるきっかけになった漫画と深いつながりのあるジムに偶然所属することができるなんて、まるで物語のようですよね。

鮮烈なプロデビューと日本王座、そして世界王座獲得

1994年にプロデビュー戦を果たします。福島選手のプロデビュー戦の結果は3RTKO勝ち。無事に幸先のいいスタートを切ることができました。その後はトレーナーと二人三脚で鍛錬を積みながら実戦を重ねていきます。試合を経験していく間に次第にボクシング選手としての才能を開花させていった福島選手。当時のスーパーバンダム級新人王だった北島桃太郎選手に対しても大差の判定勝ちを収め、タイトル挑戦を勝ち取りました。2000年にいよいよ日本スーパーバンダム級王者真部豊に挑みます。この頃、真部選手は4度の防衛を果たす安定王者と呼ばれる存在でした。この時はお互い一歩も譲らぬ試合運びとなりました。最終的にはビデオ判定で福島選手の勝利が決まり、プロ20戦目にして初の王者獲得を叶えました。この時福島選手は「(プロボクシング選手として)キャリアを積んだからこそ勝てたのだと思う」と自分の鍛錬や試合経験が糧となったことを振り返っています。2003年にはOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王座決定戦に挑戦。当時王者だった鄭在光を危なげなく破り世界王者の座を射止めました。


福島選手のボクシングの魅力と引退

福島選手のボクシングは試合ごとにさまざまなスタイルに挑戦し、選手としての幅を広げてきました。そのチャレンジ精神にあふれた試合スタイルはファンも多く生み出しました。

ジムの移籍やケガを経験しながらもプロボクシング選手としての活躍を続けてきましたが、プロ16年目となる2010年8月に引退を表明。ですが、この引退を数日後に撤回します。日本ボクシングコミッションからは引退勧告を受けながらも、引退撤回を嘆願。これまでの福島選手の功績を称え、特例で「もう一試合」が認められます。引退試合は2010年12月、同じく福島県出身のボクシング選手大竹秀典選手との試合でした。その後2011年4月に引退セレモニーが執り行われましたが、全国各地から大勢のファンが押し寄せ、引退を惜しむ様子が見られました。


福島出身のボクシング選手その2 大竹秀典


スポーツ経験皆無【異色プロボクサー】

1981年福島県郡山市に生まれた大竹選手。大竹選手はメディアで『異色ボクサー』と冠されることがままあります。大竹選手のボクシング歴、そしてボクシングに至るまでの経歴を見るとその呼び名も納得できるものでした。

大竹選手は中学時代は卓球部だったもののほとんど部活動には参加しなかったと言います。高校時代も特に運動もせず、ただふらふらと遊んでいたと本人は学生時代を振り返ります。ボクシングどころか運動とはほとんど無縁の青春を過ごしているんですね。専門学校の卒業後は地元福島の民間企業に就職し、週末には仲間と飲み歩くという日々を送っていました。そんな生活の中で大竹選手の目に留まったのが一足先にプロボクシング選手として活躍していた福島学選手の試合告知ポスターです。隣の中学出身という経歴を見て大竹選手は驚いたと言います。ボクサーのイメージといえばきつい減量とストイックな生活。それに耐える“すごい人物”が地元にいたというのは、大きな衝撃だったそう。このポスターが直接のきっかけというわけではなかったようですが、大竹選手は21歳の時に地元福島でアマチュアボクシングを始めることになります。アマチュアボクシングの試合で結果を出した大竹選手はプロを志して23歳で単身上京。その時たまたま電車の車窓から見かけた金子ボクシングジムに所属することになります。


挫折を経験し、努力のボクシング選手へと進化

2005年のデビュー戦はあっさりと判定勝ちを決めます。大竹選手のこれまでの人生と同じくボクシング人生も順調に進むように思われました。それが覆ったのが2006年から2年連続でエントリーした新人王戦です。新人王戦では2年とも東日本決勝まで進んだものの、そこで敗退。この経験が大竹選手の闘志に火をつけることになりました。「自分に対しての意地」と奮起し、ボクシングに邁進した結果2008年以降は無敗記録を維持しています。

2012年日本スーパーバンダム級王座を争い、判定勝ちで王座獲得に成功。さらにこのスーパーバンダム級王座の防衛に5度成功しています。


突然到来した世界タイトル挑戦への切符

2014年には「世界タイトルへの挑戦に集中するため」という理由でスーパーバンダム級王座を返上しました。そんな折に、大竹選手に早くも世界タイトルへの切符が舞い込んできます。2014年10月半ば、WBA世界スーパーバンタム級の挑戦オファーが大竹選手に入りました。ただし試合の予定は11月。世界への挑戦は視野に入っていたものの、あまりに急すぎる話でした。実はもともとは別の日本人選手が挑戦予定だったのが、その日本人選手が負傷してしまい、急遽大竹選手に白羽の矢が立ったのです。普通ならあまりに急でしり込みしてしまいそうなシチュエーションです。しかし大竹選手は「一生に一度、あるかないかもわからないようなチャンス。悔いを残したくなかった」と前向きにとらえます。オファーと同時に勤務先に休暇願を出し、短い期間でも最善の調整を進めました。この時の対戦相手は英国のスコット・クイッグ選手。当時5度の防衛に成功し、29勝22KO2分、防衛試合は3試合連続KO防衛という負けなしのボクシング選手です。結果として大竹選手はクイッグ選手に判定負けを喫してしまいます。格上の相手でも最後まで闘志を失わない、大竹選手らしいボクシングスタイルで挑んだ檜舞台でした。


引退はまだ遠い 大竹選手の現在とこれから

2017年OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王座決定戦に挑戦し、勝利。OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王座を獲得しています。その後3度の防衛に成功後、2018年7月に王座を返上。また、2018年8月にはWBOスーパーバンタム級タイトルマッチに挑戦しましたが初回TKOという結果に終わっています。

大竹選手は現在37歳。飲食店の料理人とプロボクシング選手という二束のわらじを履きながらいまも第一線で活躍しています。実は日本ボクシングコミッションの選手ライセンスは37歳で自動的に失効し、引退となります。一般にプロボクサー定年と言われる制度です。身体を限界まで酷使するボクシングという競技。長く続けすぎると、取り返しがつかないほど健康を害してしまう恐れが大きいために取り入れられた制度です。ただし例外として元王者や世界挑戦経験者、世界ランカーの申請があれば、CTまたはMRI、神経的診断などを含むコミッション・ドクターの特別診断をクリアすれば現役続行可能。大竹選手もこの例外に挑戦し、引き続き現役を続行する意向を示しています。1年でも、1日でも長くリングに立つ雄姿を見続けたいですね。


福島出身のボクシング選手その3 大熊正二


無名の田舎選手が突如世界王者に

1951年福島県郡山市出身。大熊正二というのはリングネームで、本名及びデビューから数年のリングネームは小熊正二です。ただし読み仮名はどちらも【おぐま】です。

1970年にプロデビュー。それまでは月に数度しかボクシングジムに通っていなかったにも関わらず、ボクシングを始めて3カ月でのプロデビューでした。しかしデビューから4年後、1374年にはWBC世界フライ級王座に初挑戦し見事タイトル奪取に成功しています。このタイトルは残念ながら初防衛戦で防衛失敗してしまいますが、それでも当時ほぼ無名だったボクシング選手が世界王者となったのは日本中に大きな衝撃を与えました。


努力が実った逆境での勝利に日本が湧いた

小熊選手が活躍した1970年代は日本ボクシング界の花盛りでした。ガッツ石松や具志堅用高、柴田国明といった現在も名が残るような花形選手が多くいた時代です。そのなかで大熊選手はコツコツと努力を重ねてきたものの、どちらかというと印象の薄いボクサーではあります。ですが、大熊選手の努力が実った大一番は今も往年のボクシングファンの記憶にしっかりと残っています。その大一番とは、1980年5月ソウルで行われたWBC世界王座挑戦試合。まず試合相手となった朴賛希は5度の防衛に成功している絶対王者で、前評判では大熊選手よりも格上とされていました。さらに当時のソウルは政府に対するクーデターが発生し、全土に戒厳令が布告されていました。当然ながら反日感情も高ぶっています。対戦相手どころか観客もすべて自分の敵といえる状況での試合は想像を絶するプレッシャーだったはずです。しかし小熊選手は冷静に戦い、これまで積み上げてきた努力を遺憾なく発揮し、5年ぶりの世界王座奪還を果たしました。その後この世界王座を3度防衛に成功しています。

現在は埼玉県で小熊ボクシングスポーツジムを運営し、後輩の育成に当たっています。


福島出身のボクシング選手を応援しよう

ここで紹介した以外にもまだ福島出身のボクシング選手は大勢います。プロを目指しているアマチュア選手を含めればさらに多いでしょう。ただ殴り合っているというものではなく、日々の鍛錬や生き様が試合に表れるのがボクシングです。福島出身のボクシング選手が今後も活躍できるよう、県民挙げて応援したいですね。

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