【幕末のジャンヌ・ダルク】大河ドラマ『八重の桜』の主役・新島八重の生涯の迫る
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2013年の大河ドラマ『八重の桜』で一躍有名になった新島八重。ドラマでは主演の綾瀬はるかさんの美しさもさることながら、八重の力強い生き方に感銘を受ける視聴者が続出しました。
この記事では、新島八重の生涯と彼女のゆかりの地についてご紹介いたします。
NHK大河ドラマ『八重の桜』
『八重の桜』は2013年のNHK大河ドラマとして放映されました。キービジュアルの綾瀬はるかさんの凛々しくも美しい姿に放映前から話題となっていたのが記憶に新しいですね。
新島八重は自分らしさを貫いた、力強い生き方をした女性でした。東日本大震災の翌々年に福島県出身の新島八重を主役とした『八重の桜』が放映されたこともあり、このドラマに生きる力をもらった方も多いでしょう。
また、『八重の桜』は震災直後で観光業が低迷していた会津若松市にプラスの経済効果をもたらしました。爆発的な効果があったというわけではありませんが、+2.5%の結果を出しています。震災による風量被害が懸念されていた会津若松市にとっても希望の光となったドラマだったのです。
新島八重の生涯
その生きざまから『幕末のジャンヌ・ダルク』、『日本のナイチンゲール』とも呼ばれた新島八重。波乱万丈の彼女の人生を追っていきましょう。
会津若松市にて生を受ける
八重は1845年、山本家の子として生を受けます。八重の父・山本権八は会津藩の砲術師範として活躍していました。
八重は男勝りな性格だったと言われています。裁縫よりも鉄砲に興味を持ち、17歳年上の兄・覚馬から砲術を学びました。八重は13歳の頃には米俵を上げ下げしていたほど体力のある女性で、非常に活発な女性だったと言われています。鉄砲についても、射撃だけでなく分解から組み立てまでを難なくこなせるほどの腕前でした。
兄の覚馬は優秀な人でした。藩校では優秀な成績を収め、武芸にも秀でていました。江戸への留学も経験し、会津に帰ってくると藩校の教授に任命されています。その際、藩校に蘭学所を設置したのですが、この蘭学所を訪ねてきたのが、八重の一人目の夫となる川崎尚之介です。尚之介は優秀な洋学者で、覚馬に会いに来ていたのでした。尚之介は覚馬にその才能を見込まれて教授となりますが、その際に山本家に寄宿することとなり、八重と結ばれたのです。
会津戦争
当時の藩主・松平容保が1862年に京都守護職に就任すると、覚馬は容保の命に従い京に上ります。そして1864年、禁門の変において勲功をあげると、公用人に任命されました。しかし、その禁門の変において負った傷を原因とし(一説には持病によるものともされる)、不幸にも失明状態に陥ってしまいます。
1867年の大政奉還の折、松平容保は大政奉還に反発、鳥羽伏見の戦いに挑みます。覚馬は眼病のためその混乱に紛れて大津に逃れようとしましたが、そこを薩摩藩に捕らえらえてしまいました。覚馬は獄中にいましたが、山本家には「覚馬は薩摩藩によって処刑された」と事実とは歪曲した情報が伝わってしまいます。また、弟である弟三郎も鳥羽伏見の戦いに参戦していましたが、銃撃を受けて負傷し、芝新銀座の会津藩邸にて亡くなりました。その遺髪と形見の袴が会津に届けられ、八重はこの袴を履いて弔い合戦に臨むことになります。
鳥羽伏見の戦いに敗れた容保は、徳川慶喜と共に江戸へ退去します。そして、のちに会津に謹慎することになりました。1868年、江戸城が無血開城され慶喜が水戸に謹慎されると、新政府軍の矛先は佐幕派の重鎮であった容保に向けられ、新政府軍が会津に攻め入ることになります。しかし、会津の村人たちが容保に非協力的だったということもあり、会津藩士との間には大きな士気の差がありました。そのことも手伝ってか、会津藩は大きな苦戦を強いられることになるのです。
会津戦争の最中、八重は薙刀を主な武器としていた婦女隊には参加せず、自らスペンサー銃を持って参戦。会津若松城(別名:鶴ヶ城)へ入城し、籠城戦に挑みます。八重は大砲隊の指揮をとったり夜襲をしかけたりと奮闘しましたが、会津藩は降伏を避けられませんでした。会津若松城の籠城戦の後、八重は夫の尚之介と離婚することとなります(籠城戦の前とも言われています)。余談ですが、かの有名な白虎隊の伊藤悌次郎に銃の指南をしたのは八重だったと言われています。
京都へ
会津戦争後、薩摩藩に捕らえられていた覚馬でしたが、覚馬の記した『管見』というさまざまな知識を記した経世論が用人の目に留まると、その価値の高さから好待遇されるようになりました。この『管見』は明治政府にも認められるほどのもので、なんと覚馬は釈放されることとなります。さらに、『管見』をきっかけとして、覚馬は京都府の顧問に就任することとなりました。やがて山本家には覚馬の存命が伝わり、会津戦争後慎ましい生活を余儀なくされていた山本家は覚馬を頼って上洛することになります。しかし、覚馬の妻・山本うらだけは会津に残ることになり、二人は離縁することになる。このころに覚馬は、目だけでなく脚にも病を患うことになりました。
八重は覚馬の影響を受け、英語などの欧米文化を学び始めました。やがて覚馬の推薦を受け、京都女紅場の権舎長・教道試補となります。そのころ、アメリカンボードの準宣教師である新島襄は覚馬のもとを訪ねていました。襄はキリスト教の大学を設立しようと計画していたのです。覚馬はそんな襄に所有していた敷地を譲り、同志社大学の設立に尽力しました。その際、襄は八重と出逢うと、その力強い生き方やキリスト教への理解から、彼女に惹かれるようになります。やがて、1875年、二人は婚約しました。このころ、キリスト教の学校の設立に反対していた仏教徒が京都府に抗議を起こし、八重は女紅場から解雇されてしまいます。しかし八重は女紅場での経験を活かし、襄の同志社大学の運営の手助けをしました。
八重と欧米風のレディーファーストを身に着けていた襄はとても相性の良い夫婦だったと言われています。欧米の文化に則り八重は襄のことを「ジョー」と呼び捨てで呼んだり、車に乗る際には襄よりも先に乗るなどしていました。二人はお互いを尊重し合っていましたが、当時はまだ女性の地位が低く、八重は奇異の目で見られていたそうです。そのため、「天下の悪妻」、「鵺」などとも呼ばれていました。
襄の死後、八重は日本赤十字社に勤めることになります。日露戦争の際には看護婦として従軍し、看護婦の取締役として活躍しました。
八重は多くの功績を残しましたが、86歳で亡くなりました。彼女の葬儀は「同志社社葬」として4,000人もの参列者があったそうです。
会津で『八重の桜』をもっと楽しもう
福島県の会津若松市出身の新島八重。会津の各地には、彼女の人生を感じることができるスポットがたくさんあります。会津に来た際には訪れてみてはいかがでしょうか。ここでは、数あるゆかりの地から、3つをご紹介いたします。
鶴ヶ城
当時は会津若松城として会津戦争の戦地となったこの城も、今は人気の観光スポットです。
鶴ヶ城は明治7年に一度取り壊されていますが、昭和40年、寄付が集まりよみがえりました。赤瓦をまとった天守閣は、日本で唯一のものです。1,000本の桜と共に建つ美しい天守閣は圧巻です。
桜の見ごろの季節におこなわれるさくらまつりの開催期間はより鶴ヶ城を楽しむことができます。「鶴ヶ城おもてなし市」が開催され、会津の民芸品を購入することができます。赤べこや起き上がり小法師はお土産にも喜ばれるので特におすすめ。さらに、夜にはライトアップされた夜桜をみることができます。鮮やかな桜と真っ白な城壁は闇夜にも美しく、そのコントラストに目を奪われるでしょう。
また、鶴ヶ城公園内にある麟閣もおすすめです。この麟閣はあの千利休の子・少庵が建てたとされる茶室で、福島県の指定重要文化財にもなっています。ここでは色鮮やかな八重桜やお茶を楽しむことが可能。定期的に茶会も開かれているので、興味がある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。
會津藩校日新館
八重の兄の覚馬や白虎隊の隊士の学び舎である會津藩校日新館。「ならぬことはならぬのです」で締めくくられる什の掟のもと、会津藩士の子弟は厳格な教育を受けました。
現在は、会議室として使えたり宿泊施設として使えたりとマルチな用途をもった観光スポットになっています。お食事処では思わず涎が出てしまうような旬の味覚をふんだんに使用した郷土色豊かな料理をいただくことができます。
なによりの目玉は、さまざまな体験が出来るということ。坐禅や茶道、弓道をはじめ、白虎刀や赤べこなどの絵付けが体験できます。一部は団体での利用のみとなっていますが、絵付けなどは最少人数が定められていないので、気になる方は事前にチェックしてみましょう。
飯盛山
白虎隊藩士が敗走し、自刃した悲劇の地。白虎隊藩士のひとり、伊藤悌次郎は八重に銃を教わったとされています。
飯盛山には白虎隊藩士が眠る墓や自刃の場が残されています。また、白虎隊の資料館もあるため、彼らの生きた道を知ることができるでしょう。
スロープコンベアで山上まで登れるので、体力に不安がある方も安心。お土産を購入したり食事を楽しめる飯盛分店があるので、疲れたらちょっと休憩してみるのもよいでしょう。
まとめ
放映終了後も名作として人気のある『八重の桜』。彼女とその周囲の人々のまっすぐな生きざまに感銘を受けた方がたくさんいます。今もなお色鮮やかな『八重の桜』、もう一度見返してみてもいいかもしれませんね。
また、ぜひ会津にある数々の新島八重の生きた場所を訪ねてみてください。あの時代は悲劇の場所となった鶴ヶ城や飯盛山も、今は時代を語り継ぐ観光地。実際に足を運ぶことで、よりあの場所に生きていた人たちの息吹を感じることができるでしょう。