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2019.09.27

福島出身の文豪・横光利一の生涯と代表作

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福島生まれの文豪・横光利一は文学史にその名を刻む「小説の神様」です。菊池寛に師事し、川端康成を生涯の友とし、文学に生きた人物でした。

この記事では、そんな横光利一の生涯と彼の代表作についてご紹介いたします。

横光利一の生涯

福島県にて出生~学生時代

横光利一は1898年、福島県の北会津にある旅館・「新瀧」(現在の東山温泉)にて生を受けました。父は大分出身の鉄道の設計技師、母は三重出身で松尾芭蕉の家系の女性と言われています。一家は父の仕事の関係で日本各地を転々としていましたが、父が軍事鉄道の敷説工事のため朝鮮に渡ると、母の故郷である三重県の拓殖村に帰り、そこで過ごすことになりました。

中学時代は一人で下宿生活を送っていました。彼は文武両道の生徒で、国語教師に文才を認められ、小説家を目指すようになります。このころは、夏目漱石や志賀直哉を読んでいたそうです。また、この中学時代、利一は近所に住んでいた宮田おかつという少女に初恋をしました。彼女への恋の思い出は、小説『雪解』に綴られています。

1916年、利一は早稲田大学高等予科文科に入学します。文学にのめり込むようになり、小説を文学雑誌に投稿するようになりました。家は経費節約のため、友人を含め三人で借りていました。そのころ、友人に女中を寝取られた経験を、小説『悲しみの代価』に記しています。

1917年、利一は神経衰弱を理由として高校を休学、両親の住む京都山科に移ります。その年の7月、文壇の登竜門とされる雑誌『文章世界』に『神馬』が佳作として掲載されました。さらに10月には『万朝報』に『犯罪』が当選作として掲載されています。

1918年4月には英文科に編入しました。下宿では佐藤一英と中山義秀が一緒でした。やがて一英の詩歌研究会に加わり、横光佐馬の名義で詩句を発表します。このころの利一は授業には出席せず、下宿に篭って小説の執筆と投稿に燃えていました。

菊池寛のもとへ~川端康成との出会い

1919年、『新潮』が「菊池寛氏に対する公開状」を募集し、佐藤一英が入選します。それをきっかけとして、佐藤一英は菊池寛を訪ねるようになりました。菊池寛は佐藤一英に小説の執筆を勧めましたが、佐藤一英は詩人でありたかったため、代わりに菊池寛に利一を紹介します。それ以降、利一は菊池寛に師事することになりました。

1921年、政治経済学科に編入しましたが、学費未納と長期欠席のため除籍になってしまいます。同年、藤森淳三、冨ノ沢麟太郎、古賀龍視らと同人誌『街』を発刊。またそのころ、菊池寛の家にて川端康成と出逢い、二人で菊池寛に牛鍋をごちそうになりました。それをきっかけとして、二人は生涯の友となるのです。このころに利一は『蠅』と『日輪』を執筆しました。

1922年5月、富ノ沢麟太郎、古賀龍視、小島勗、中山義秀らと同人雑誌『塔』を発刊します。そのころ、父が朝鮮で亡くなったり、恋愛がうまくいかなかったりと、辛い出来事が続いていました。

1923年、菊池寛が『文藝春秋』を創刊します。『文藝春秋』は大盛況ののちに完売しました。同誌の二号から、利一は川端康成と共に編集同人となります。そして同誌に『蠅』を、雑誌『新小説』に『日輪』を発表すると、利一はその名を知らしめるようになりました。6月に、小島君子と結婚します。

1923年、関東大震災が起こり、利一は被災しました。東京堂にいたときに被災しましたが幸いにも命に別状はなく、春日町では無事に菊池寛と会うことができました。しかし当時の下宿が倒壊してしまい住まいを失ったため、小島勗のもとに身を寄せることになります。同年11月、『震災』を発表しました。

1924年、川端康成らと共に『文藝時代』を創刊します。この時代、プロレタリア文学が主流でしたが、同誌は新感覚派の拠点となるものでした。新感覚派は千葉亀雄によって命名されたものでしたが、新しい言語感覚によるモダニズム文学として注目され、大正後期から昭和初期にかけて、プロレタリア文学と共に二大潮流となりました。1925年、母が亡くなります。

海外へ

1928年、利一は一か月ほど上海に滞在します。このころ、芥川龍之介をはじめとした文豪が上海を訪れることが多かったようです。利一は上海に滞在する間、人々の醜さに辟易としていました。西洋に支配されるアジアを目の当たりにし、東洋の惨めさを意識するようになるのです。この体験をもとに、初の長編小説『上海』を書き上げました。しかしこの『上海』は当時の思想においては問題作として見られ、内務省の検閲を意識し出版社が自主規制として多くの伏字を施しました。

1935年、東京日日新聞と大阪毎日新聞のヨーロッパ特派員として、渡欧します。フランスのマルセイユに渡ると、自由を第一印象として捉えましたが、血まみれのキリスト像や街角で疲弊しうなだれる群衆を見るなり「想像したより、はるかに地獄だ」と感じました。パリへ移動すると、はじめのうちは憂鬱に打ちひしがれていましたが、岡本太郎の手助けをうけるうちに利一はパリに好感を抱くようになります。パリの滞在の途中、5日間ほどイギリスへ旅行しましたが、その際にはあまりのカルチャーショックに神経衰弱になってしまったと言われています。その後もさまざまな国を訪れ、8月にはベルリンオリンピックを観戦し、観戦記として報道し続けました。帰国すると、この旅を元にした『旅愁』の連載を始めます。

太平洋戦争~晩年

太平洋戦争の折には、利一は国粋主義に傾いていきました。戦争の最中、山形に疎開していた利一は、食糧難により健康を害してしまいました。敗戦を知らされると、その絶望を『夜の靴』に記します。

戦後、利一は「文壇の戦犯」として名指しで非難されるなどしましたが、利一の小説の読者は増え続けました。そして改造社から『旅愁』が名作選として発刊されると、活字に餓えていた国民の間で大ヒットしました。ただ、一部、反ヨーロッパ的な表現が検閲によって改変されていました。

1947年、『夜の靴』を発刊。そのころ、利一は病により床に臥すことが増えてきていました。拓殖で過ごした青春時代を綴った『洋灯』の執筆中、胃潰瘍と急性腹膜炎にて49歳の若さで亡くなりました。

死後、自宅にて葬式が執り行われました。弔辞は川端康成によっておこなわれています。1948年、川端康成や菊池寛らによって、『文学界』にて『横光利一追悼号』が発刊されました。そして『横光利一全集』の発刊は改造社と新潮社が激しい争奪戦をおこないましたが、生前親交を深めていた改造社が出版権を獲得、出版しました。1959年には旧拓殖村に記念碑がたてられました。

横光利一の代表作5選

波乱万丈の人生の中、横光利一は数々の作品を残しました。その中から、5作、ご紹介いたします。

『蠅』

横光利一が文壇へ出世するきっかけともなった作品です。10ページほどからなる掌編小説でした。

さまざまな事情を抱えた人たちが乗り込んだ馬車が、馭者の居眠り運転により崖から墜ちてしまうまでを描いた物語。馬の背に乗っていた蠅のみが生き残るという不条理が顕著に表現されています。

この作品は横光利一の出世作でしたが、さまざまな評価を受けました。「泉鏡花の風格を見出した」とも、「あれだけの内容であればここまで野心的な内容を含む必要はない」とも論じられました。また、表現技法についても、映画のモンタージュのような映像的な表現を用いているという点で評価されました。

『機械』

横光利一の代表作のひとつです。独特な表現技法を用いた、実験的な小説でした。

この作品は、ネームプレート工場で働く「私」の視点で語られる物語です。作業員同士の複雑に絡み合う人間関係の中で迎える衝撃の結末を描いています。

この作品のなによりの特徴は、その表現です。句読点や段落などをほとんど使用しない、それこそ機械の如きメカニックな文章にて綴られています。この画期的な技法が高く評価されました。

『旅愁』

戦後直後に10万部を売りあげた大ヒット作です。利一がヨーロッパを巡ったのをきっかけとして描かれました。

日本とヨーロッパの文明的な対立を背景として、ヨーロッパ受容の問題意識について記した作品です。当時の日本においては、知識人ほどヨーロッパに対する考えに囚われてしまっていたのでした。実際にヨーロッパを巡った利一によって発露された、この作品に記される思想は、当時の日本においては印象強いものだったのでしょう。

発刊当初は検閲があり表現が変更されている箇所が多くみられますが、現在発売されているものでは本来の表現にて描かれています。

『日輪』

『蠅』と並んで利一の文壇出世のきっかけとなった作品。雑誌『新小説』が初出となりました。

物語は卑弥呼を中心とした愛憎と、血なまぐさい戦禍を描いたもの。生々しくも苛烈な小説です。

当時の評価は賛否両論でした。「弛むとこのない力作」という意見もあれば、「ゆとりのない力を込めすぎた作品」という意見もありました。しかし、物語に関しては辛口な評価も見られましたが、映画的な表現技法は高く評価されました。

『夜の靴』

太平洋戦争の際の、利一の疎開体験を日記の形式で描いたもの。巧みな表現によって戦争の孤独や喪失感を描いたこの作品は、高い評価を受けました。

河上徹太郎によって、この作品は利一の最高傑作との評価をされました。

まとめ

横光利一は福島県出身ではありますが、国内だけでなく外国にまで足を運び、広く活躍していました。著名な文豪とも親交が深く、文学界においては重要な立ち位置にあったと言ってもよいでしょう。彼の死後もなお、彼の作品は色あせることなく現代でも読まれ続けています。

彼の作品は秀でた表現技法や当時の思想が反映された物語であり、当時も今も賛否両論のところがあります。しかし彼は紛れもなく「小説の神様」であり、多くの人々の心をとらえてきました。彼の著作を手に取る機会があったら、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

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